
という本を読んだ。
http://www.jimbunshoin.co.jp/mybooks/ISBN978-4-409-24086-1.htm全編が集団討論みたいなつくりで、久々に本から刺激を受けた。
第1章ではからずも上野千鶴子さんとのやりとりがでてくるが、10年ほど前の上野さんの『ザ・フェミニズム』も刺激的だったけど、この本からは、次の地平は新しい共同の力によってひらけるだろう、そこに参加していこうと思わせる温かい希望が感じられた。
きっと四六時中議論を重ねて数年間つみあげてきたのだろう、執拗ともいえるロストジェネレーション当事者たちの粘り強さに脱帽。
実質上、編集者の栗田隆子(りゅうこ)さんは、落語家のようにしゃべり、哲学者のように文を書く。
一回り下だけど、なんだかすごく感覚が通じるところがある、と初めて会った2年前に思った。
どうあがいても、がんばっても、世の中と自分、今いる場所と自分は ずれている、という感覚は子どもの頃の体験によるところが大きいのか。このがんばりって壮大なむだなんじゃないの、としょっちゅう思ったり。
どうせずれているなら、いままでなかったとされていたものを発掘して、ことばにしていきたいという欲望。
そこから何か新しいものを、人々の中で共同でつくりだしていきたいという希望。
しかも、コトバを突き詰めていくだけじゃなくて、いろんな持ち味とか、とりわけ「笑い」やユーモアがほしいよね、というような感覚
(それってフェミに欠けていたものなんでは。女の人のきまじめさが社会を支えてきたけど、絵に描いたようなまじめな主婦、まじめな母って人や子どもを追い詰めると思うのだ)。
そして人との共同作業の中でコトバや場をつくっていくのをおもしろいと思う習性、そのなかでの人への期待・信頼感(片思いになることも含めて)などなどに、勝手にシンパシーを感じている。
『フリーターズフリー』の編集人たちは3人の男性を含めて、とりわけ女子の労働について、考え続けている。
労働と、性や暴力とのかかわりについても。
若い女だったときに私が感じていた居心地の悪さ、皿に乗ったさしみのように自分は刻々と腐っていくのではないかというおそれ。肉の臭い・・・。それらに疲れて
もう面倒になってだれかと対になったり、子どもを産んだりしても数年で忙しさは終息し、若いとき置き去りにした問題たちが浮上する。40代はそれとの格闘であったような。どこまでいくのか、ぬかるみを・・・
と思っているうちに働く場もどんどん変容していく。人は例外なくコマのようになっていく。
そうでない労働の場はどこかにつくれるのか。
働く者のピアなささえあいを維持するのにも、エネルギーが枯渇するような日々だ。
第5章「フェミニズムとカトリックのあいだで」の対談は圧巻だった。
栗田さんの思索の足跡をたどって、その粘り強い仲間みんなで語り、大いに「モテ」ていた(ようにみえた)。時代は変わったんだな、と思った。
・本も好きですが、やっぱり決定的に自分が変わっていったのは、人との出会いなんです。人との出会いののなかで本が生まれていくということを、見える形で伝えていきたい。
・(「書く」「祈る」「産む」などの)ひとりで行っているような行為の中に、実は多くの人がかかわっているということを感じます。それを伝えたい。
・聖書はだれが書いたかわからないけど今も流通している。シモーヌ・ヴェイユも晩年は民話や童話の中の匿名の知について触れている。単純に有名になることで文章が流通するのではない。また匿名ゆえに無責任になれることともちがう、「知」の流通が必要なのではないか。私たちには署名入りでなく文を書く機会がたくさんある。1枚のビラ。案内。読み原稿ひとつ。
本当に伝えたいことを伝わるように伝えられるのか。
ということをときどき考える。伝えたいことは何なのか、ということも。
『フリーターズフリー』3号も、もうじき出るのだろう。
「知」のふろしきを路上にひろげる、行商人の栗田さんが浮かんできた。
給料もらう仕事をやめて専念するという。路上落語ライブでもやってください!
手伝います。
◆追伸
そうでした。以前職場で話していただいたときの映像がありました。語り口調がきこえます。
http://www.youtube.com/user/ywfkoho045#p/a/u/0/99KIFZh19TY